茶の湯の世界では、「おもてなし」には、下記の3つの原則があるという。
1.準備を整えて客を待つ(仕度の原則)
2.くつろげる空間を演出する(しつらえの原則)
3.ゲームのルールを共有する(仕掛けの原則)
おもてなしは、まずは主人が取り仕切ることからはじまる。主人は、準備を行い、空間を演出し、客をまつ。あらかじめ前もって行う準備のことを「用意」という。
しかし、おもてなしの本質は「主人」だけにあるのではない。上記3のルールを共有した「客」と「主客一体」になって、相互行為として達成される、というところが最大のポイントである。これを「卒意」という。
おもてなしには、「用意」と「卒意」が必要である。つまりは、主人と客が、アドホックに機転を利かして場を構成する。
おもてなしが成功するかどうかは、主人だけにかかっているのではない。主人と客のインタラクションの中に、おもてなしがある。
「主人と客がともに一回かぎりの機会を思いやりをもって取り組もう」という「一期一会」、それにより「主人と客が心が通い合う状態」が生まれる「一座建立」は、こうしたインタラクションによって達成される。
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これは、おそらく、演芸や茶の湯といった世界だけに言えることではない。
フォーラム、セミナー、ワークショップというものでも同じだろう。きちんと主催者側が準備をしても、「お客さんが卒意をきかせてくれない場合」には、「よい場」にはならない。
もちろん、そもそも「用意」ができていない準備不足のイベントは多々ある。そういうものは論外にしても、いくら準備をしても、その場の成功は、主人だけで決定されるわけではない。
イベントを経験して、「あんまり面白くなかった」と感想を述べるのは簡単だ。
しかし、その場の構成のため、
あなたは「何」をしたのだ?
そういうことを考えてみる必要があると思う。
309 名前: おさかなくわえた名無しさん [sage]
投稿日: 2009/11/19(木) 23:13:03 ID:C1kgVhIh
ボジョレヌーボーの評価
711 名前:名無しさんにズームイン![]
投稿日:2009/11/19(木) 23:10:59.01 ID:0MXmk4ma
95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
97年「1976年以来の品質」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年「ここ50年で最高の出来」※NEW!
そのうち最大のものは、「Facebookはおじいちゃんと連絡するためのものだよね、もう誰も動向を気にしてないよね」という発言です。発言したのは、「Google」と書かれたTシャツを着たYahoo!のインターンくんで、20歳です。確かコロラド州だったか割と地方の出身で、どこかしら家出少年の雰囲気をまとっている人でした。言うことはズバズバと遠慮がないものの、非常に素直な好青年という感じの人です。Googleに入れるならいいけど毎日オレがやってることといえば、くだらないJavaScriptとかPHPのデバッグだよというようなことをぼやいていました。
このインターンくんをはじめとする若者たち数名に言わせると、Facebookは家族を含む誰もが使っていて連絡なんかには便利だし、ふつうに使うんだけど、もはやそれだけの存在だというんです。Facebookは別に何にもエキサイティングじゃないし、家族との連絡用途ぐらいにしか使わないと。
それじゃMySpaceはどうなのと聞くと、もうとっくの昔に終わってるよと一刀両断です。MySpaceというのは、大勢のどうでもいい人たちが、どうでも良くない人たち(著名人など)をフォローするだけの場所だよねと、すごいことを言います。
漫才と言えば、俺は上岡龍太郎さんが言ってた言葉を思い出すんよ。
漫才というのはすごいんだ、と『EXテレビ』のスタッフに
話してくれたことがあって、僕もその中にいたんだけどね。
テレビサイズだと、漫才のネタは約3分。
その3分で「おもしろい!」と思わせなければダメ。
たった3分で他のヤツらより「こいつらがおもしろい!」と
思わせなければダメだ、と。
とにかく一発目の笑いを速く立ち上げること。
あとは、ひとつひとつの笑いに対するフリをできるだけ短くすること。
とにかく最小限に言葉を切り詰めて、
余分なものを極限まで削ぎ落とされた会話が漫才だ、と。
母性愛なんて言いますが、自分の子供のことしか考えないようなものは、動物と変わるところがないじゃありませんか。(山本有三『女の一生』)
情報が不足した時代,価値観の前提を疑う必要が無い時代の方法論による「自己評価」には明らかに害があります。たいていの人は,それによって自信を失い過剰に攻撃的になり,自分自身との接点を見失ってしまいます。これまではその害を上回る効能があったから放置され,場合によっては奨励されてきたことですが,ここだけは至急変えるべき必要があると思います。
「自分がどういう人間であるかについて,客観的な基準や客観的に定義された概念を排除して考えること」
これが必要だと思うのです。少なくとも,「自分を評価する自分」に対する目を,ずっと厳しくする必要があるでしょう。「評価される側の自分」には厳しくても「評価する側の自分」に甘い人が多いように私は感じます。「評価する自分」を疑い,それによって得ることと失うことをもっと厳しく評価すべきだと思います。